旧中山道を自転車で走ってみよう

昔の日本人がどのように長距離移動していたかご存知だろうか。明治までは車 (馬車) がなく、人の移動も制限された時代ではあったが、参勤交代をはじめとした長距離移動ができる道路の需要があった。これに応えるためにあったのが都市間を一気通貫でつなぐ大動脈となる道路だ。

これらの大規模道路は「街道」呼ばれる。中でも江戸幕府が整備した5つの街道は五街道と呼ばれる。中山道はこの五街道の中の1つで、江戸の日本橋⇄京都の三条大橋を結ぶ総距離533kmのルートである。

「街道とは昔の高速道路である」という例えをどこかで見たが、やや不正確ながら分かりやすいと思った。現代の高速道路という比喩を継承して東海道を江戸時代の東名+名神と表現するなら、木曽の山岳ルートを経由する中山道は中央道+名神になるだろう。

この記事の前提条件として、筆者は京都の三条大橋をスタート、江戸 (東京) 日本橋をゴールとしたことを初めに書いておく。そのため全ての感想は東進ルートの前提でのものとなる。どちら向きに進むのが正解ということはないが、旧中山道をどちら側で走ったかは重要な情報だ。特に旧中山道の峠道は峠を境として条件が変わることがある。極端な例では片側は未舗装路で片側は舗装路なんてことがあったりする。自転車の場合、乗車率など体験に大きく関わる部分だ。

ちなみに筆者は和田峠と碓氷峠は京都側から登った方がいいということを理由に、京都側からスタートするのが良いのではないかと考えている。詳細は本稿の下部にある和田峠と碓氷峠に感する説明を見てほしい。

旧中山道の街並み

他の街道と比較したときに、旧中山道の魅力としてよく語られるのが、よく保存された旧街道の面影だ。極端な例は妻籠宿や奈良井宿のような宿場町がある。これらの宿場町は、集落全体が宿場町を再現したテーマパークといった様相で、古い街並みが保存されている。これら一部の宿場町は今では観光地となり、存在しない記憶に基づいた幻のノスタルジーを感じるため、多くの現代人が訪れる場所になっている。

馬籠宿の街並み。妻籠宿や奈良井宿と比較すると、全体的に新しい感はある。

本来の宿場町は、行政の施設や旅籠 (宿泊施設) や食事処が集まった集落のことで、中山道を旅していた人馬が休めるよう作られたものだ。旧中山道の533kmという総距離も今となっては特に長い部類ではなく、宿に泊まって移動するような距離ではない。このぐらいなら電車に座っていれば半日で着くし、ロードバイクで17時間以内で東京から大阪まで移動する人類もいる 1) @RX_Takaoka 午後3:55 · 2020年11月16日 。しかし、主に人力で移動していた当時、一日に移動できる距離は数十kmだったので中山道のような長距離ルートの移動は宿場町での宿泊に依存した。結果、宿場町は旅人から得られる利益で発展した。

現在の旧中山道の宿場町はすでに宿場町としての機能は無くなっている。しかし、関東をけば未だに集落としての体を保っている場所が多数で、大多数は昔ながらの集落や古い商店街になっている。そして、そのうちいくつかの宿場町は、観光地として昔とは違った形で旅人が多く訪れる場所になっている。

江戸時代の宿は旅籠と呼ばれた。写真は岐阜県の垂井宿にある現存する旅籠の長浜屋。現在は休憩所として営業。旧中山道ではこのように歴史的建造物を休憩所や博物館として利用する例がよく見られた。

旧中山道の衰退と復活

旧中山道の宿場町には栄枯盛衰の歴史がある。旧中山道は江戸幕府体制下での政治経済の大動脈として発展したが、明治以降に交通網が再整備された結果、新道や鉄道網から外れる宿場町が出てくることになった。ここで他の産業を持たず旅人の経済効果に頼っていた宿場町は衰退を始めた。

妻籠宿にある古い建物にあるメモ書き。
宿場町の建物は人間によって意図的に立て替えられるだけでなく、火災で焼失していることも多く、宿場町に設置されている町の歴史を説明する案内板を見ると、よく火災で消失した話が出てくる。

現在の妻籠宿は宿場町の風景を濃く残す人気の高い宿場町の代表例だが、実は高度経済成長期までに一度衰退しきっている。そんな妻籠宿は現代的な発展ではなく逆に昔の街並みを残すという方針によりこの衰退から復活している。この宿場町では1968年より 「売らない・貸さない・壊さない」という三原則の元、宿場町の保存事業を開始した。1968年といえば高度経済成長期の終盤だ。古い街並みを保存することで街の発展を目指す方針は、当時としては逆張りだったはずだ。しかしこの取り組みはすぐに奏功し、1970年代には来訪者が急増した。結果として日本でも先駆的に宿場町の町並みの保存に成功した街として知られている。

妻籠宿の街並み

このような妻籠宿のような伝統的な宿場町はやはり外国人に人気だ。筆者が中山道を歩いたのはパンデミックの最中だったため当時の賑わいは分からないが、外国人旅行者が宿場町を歩いている写真をネットでよく見かける。事実ベースで言っても馬籠宿と妻籠宿の間にある馬籠峠を越える人の2017年の計測結果では、55%は外国人だったという記録がある2)渡部 美智子 『重要伝統的建造物群保存地区と観光』 表-3 馬籠峠を越えるハイカー

中山道の良いところは、ただ外国人が多いというだけではなく、多様な国や地域から人が集まっていることも注目すべき点だ。奈良井駅での訪れる外国人観光客の国籍を調査した結果がある。これを見ると特定の国からの観光客に依存していないことがよく分かる3)渡部 美智子 『重要伝統的建造物群保存地区と観光』 表-6 奈良井駅を訪れる外国人(全体)

奈良井宿の街並み

ここで日本全体の観光客の構成に目を向けると、やはり訪日観光客は東アジア系に依存している。パンデミック直前の2019年の調査結果では、東アジア (中国、台湾、香港、韓国) だけで64%を占めていることが分かる4)国土交通省観光庁『訪日外国人の消費動向』【図表】国籍・地域別の訪日外国人1人当たり旅行支出と旅行消費額。街で見かける外国人旅行者が東アジア系ばかりなのは、多くの日本人の直感と一致するところだろう。

このような日本全体での傾向と比較すると奈良井駅での計測結果は、旧中山道を訪れる外国人の国籍は有意に多様性がある。旧中山道には文化圏を越えて人を惹きつける、普遍的な魅力があると言えそうだ。

旧宿場町の普通

妻籠宿や奈良井宿ほど極端な例ではなくとも、関東圏を除けばほとんどの宿場町は、大なり小なり普通の住宅街とは違う独特の雰囲気を持っている。例えば古井戸があるとか、自営業の店舗が多いとか、道の作りが合理的ではないとか、広い土地を持った塀のある一軒家が多いとか、野菜を洗ったり冷やす用水路が家の前を通っているとか、そういった細かい雰囲気の積み重ねからでも昔から人が住んでいた集落であることが推し量れる。地域性によっては観光地化しているわけではないにも関わらず、伝統的な雰囲気の民家が多い宿場町もあり、昔の町並みを感じることができた。

和田峠の麓にある和田宿の街並み。妙に立体的で道は細く曲がりくねっている。決して観光地ではなかったが古い建物が多かった。

古い集落自体は日本には珍しいものではなく、旧街道でなくても田舎で自転車に乗っていれば見かけることができるが、旧中山道の宿場町の場合、どんな場所でも街なかに史跡や町の歴史を解説した立て看板などが、ほとんど必ずあることが特徴だ。史跡と言っても古墳や城のような大げさなものではなく、本陣跡や茶屋や井戸の跡といったささやかなものだが、それでも丁寧に扱われている。

これらは地元の市民団体などの名前が入っており、つまり住民が設置していることがわかる。 旧宿場町の中でも観光地化されている場所は一部で、大半の場所はちょっと雰囲気のある普通の集落という程度だが、それでも住民が健気に街の歴史を語り続けているということに感心した。

ちなみに本陣とは政府の役人などが泊まるための宿場町では中心的な役割を果たす施設のことだ。問屋など地域の豪商の民間人が幕府から任命を受けて務める。本陣跡はGoogle Mapsにも基本的に登録されているので、だいたいこの辺りが宿場町の中心か、とアタリをつけるための目印として結構役に立った。旧中山道を旅するときのちょっとしたTipsだ。

中山道をご巡幸される明治天皇にお茶を献上するために使われた、宮ノ越宿に現存する古井戸。明治天皇と和宮親子内親王は中山道に縁が深く、単に道中の休憩場所といった些細な場所も史跡になっていた。住民にとっては名誉なことだったのだろう。
宿場町にはこういう立て看板が何枚もある。

筆者は歴史には疎いため、旅行先で現地の博物館に手ぶらで行ってにわか仕込みの知識をつけ、文化人になった気分になるのが好きだ。旧中山道巡りでは走りながら立て看板をつまみ食いして読むだけで、まさにそういう楽しみ方ができるようになっている。中には資料館が用意されている宿場町もある。クオリティはそれぞれだが、例えば太田宿下諏訪宿のものはよくできていたので一見の価値がある。しかも無料だった。

岐阜県中津川市にある落合宿の本陣。本陣然とした建物が維持されており本陣跡としてはかなり立派な部類。
洗馬宿本陣跡。建物は残っているが作りは普通の民家になっていた(通常の民家のため写真は控える)。このように普通に子孫が住む民家になるだけの本陣跡も多い。あっけない気もするが、本陣も結局は民間人が幕府から請け負っていただけなので、幕府がなくなれば本陣としての役割は終わり普通の私有地になったというだけの話だろう。それでもやはり先祖が本陣を勤めたいえは地元の名士なので、塀と土地があるような立派な家が多かった。
本陣跡といっても必ずしも何かが残っているわけではなく、ただの空き地になっているものも珍しくなかった。

旧中山道の道

旧中山道は江戸と京都を結んでいるが、東海道のように素直に太平洋側を通るわけではなく内陸部を通っている。これを現在の都道府県で言えば、東京、埼玉、群馬、長野、岐阜、滋賀、京都に相当する。後で詳しく説明するが、とりあえず筆者のログデータを見てイメージを掴んでほしい。

特に現在の中津川市から塩尻市までは木曽路と呼ばれ、この前後は山岳ルートとなっている。最高地点である標高1,600mの和田峠を筆頭に、旧中山道の峠道はただ標高が高いだけにとどまらず未舗装の部分も残り、サイクリングルートとして大変走りごたえがある。

中山道の道のりの険しさは宿場町の数に現れている。495kmの東海道に53の宿場町 (いわゆる東海道53次) だったのに対し、533kmの中山道には69の宿場町がある。平均すると東海道の宿場町間の距離が9.3kmに対し、中山道は7.2kmと2kmほど短い。宿場町に設置されている案内板で歴史を読んでみると「中山道を運用してみたら○○宿と●●宿の間が思ったよりきつかったので増設した (意訳)」といった、パッチ的に作られた宿もいくつかあることが分かった。

現代の中山道

さて現代の旧中山道はどうなっているのか。江戸から京都まで全体を通して共通するのは、中山道という道そのものが今も中山道として残っているわけではない。旧中山道だった場所が明治以降に再整備された結果、ある部分は国道や県道として別の名前が与えられ、またある部分は名前のない道 (俗に言う白道) として残っている。そして峠道は舗装すらされず遊歩道として残されている。結果的に現代の道路区分でいうと色々な道のつぎはぎになっている。

そのため現代に旧中山道を歩いたり走る場合は、一本のつながった道を粛々と進むというよりは、色々な道をを慌ただしく行ったり来たりすることになる。徒歩で回っている人の速度感ではおそらくなんの問題もない。しかし、これが自転車の場合はいつものスピードで走ってしまうと、曲がるべき場所を見落としてしまう。そのためいつもより速度は落として、サドルトークでもしながら景色を楽しむくらいの余裕で走らないといけない。

白道と国道を行ったり来たりする複雑な道。旧中山道にはよく見られる。

そう思うと旧中山道めぐりというのは、スピードを出して気持ちよく走りたいマッチョなサイクリストには、このせわしなさはもしかしたら退屈にさえ感じるかもしれない。旧街道サイクリングは地図や景色を見ながらゆっくり走りたい人向けの遊びだ。

以降、本章ではそんな旧中山道の現代の道の様子を (1) 山間部 (木曽路) 、(2) 関東、(3) 関西の3つでざっくりと分け、この3つについてそれぞれ説明する。

(1) 山間部の旧中山道(木曽路)

関東と関西に挟まれる山間部(木曽路)は、最も旧街道らしい場所だ。旧中山道として一般的に持たれているイメージのほとんどはこの区間が生み出していると思う。これは保全された宿場町らしい風景があるという意味でもあるが、それに加えて細く険しい未舗装の峠道も山間部の中山道を特徴付けている。旧中山道の見所が凝縮されているので、中山道を部分的に走るなら山間部だけ走るのが最もオトクだ。

木曽路とは現代でいう岐阜県の中津川から長野県の塩尻までの間を指す。これに加えてその前後の、岐阜県の鵜沼から群馬県の安中あたりまでは、峠道や未舗装路が断続的に続いていたので、ここでは山間部としてグルーピングしておきたい。

是より南 木曽路 の碑

旧中山道が主要道として運用されていた江戸時代の当時、木曽路の山道はどちらかと言うとネガティブな場所だったようだ。というのも峠の説明を読むとどこも旅人泣かせだったという内容の説明がある。しかし今となっては旧中山道を通行する人は好き好んで来ているわけであり、特に木曽路の峠は現代も未舗装路が残る重要な見所になっている。

木曽路には現代も未舗装の峠が多い理由について、直接的な情報は見つけられていないが、峠道と離れた場所に新道が通されたからだと考えている。基本的に中山道の新道は、旧道と付かず離れずの距離を保っている。しかし峠道では数百m、場所によっては数kmほど新道と旧道の距離が離れている。自動車でも通行できるようなしっかりした道が離れた場所に作られた結果、旧道を整備する理由がなくなり未舗装路のまま保存されたのだろう。

一方で道というものは整備して通行する人がいるからこそ維持できるもので、本当に文字通り放置してしまうと野生化して通れなくなる。誰か人の手が入って人為的に維持されているはずだ。しかしこれら未舗装区間は、既に沿道に住民がいるわけでもなく、代替できる車道がかならずあるため、すでに実用的な価値はなくなっている。中山道の文化的価値や、その脇にある神社や鳥居などの宗教的意味を鑑みて保全されているのだろう。

熊よけのための鈴があり人が通っているのが分かる。鳥居峠のものだが中山道の各地にあった。
和田峠の七曲りの目印。素朴ながら人が整備していることが伺える。
和田峠の京都側のカラマツの林。しっかり間伐されており、よく整備されて明るい見栄えの良い林だ。

峠道に限って新道と旧道の乖離が大きいのは、道路作りの前提条件の違いだと考えている。江戸時代は馬車すらなかった時代だが、明治からは人口も急増し自動車も登場したため、道路に求められる性能は変わった。そのため難所であった峠道は現代の大規模な輸送の需要に応えるような、自動車が通行可能な道に整備する必要があった。

しかも江戸時代と現代では道路作りに使えるリソースが違う。日本の内陸部は山がちな地形となっているが、江戸時代に山道を通そうとすれば、まず当時の土木技術で作れるのか否かという制約が発生する。しかし費用や時間がかかっても経済的合理性や公共性の理由があればなんでもやるのが現代人だ。これにより難所と呼ばれる自動車などの通行に適さない道は、どこも旧道と離れた場所に新道が通され、場所によっては数kmほど離れている。

この現象は山間部特有で、関東の場合、旧中山道の大部分が今でも現行の道路として使われている。関西も関東ほどではないが旧道と新道の重複は多く、大幅に外れるような場所はなかった。つまり平な土地では江戸時代の技術でも現代でも使える道が作れていたということになる。平地ばかりが都市として発達する理由を自分の足で感じることができた。

そもそも旧中山道は徳川幕府が整備したものだが、当時フルスクラッチで作ったわけではなく、江戸時代以前から使われてきた道を繋いで街道として制定されている。鳥居峠や碓氷峠は古代まで記録が遡れるし、和田峠に至っては黒曜石の採取のため縄文時代にはすでに人が通っていたことが分かっている。そういう古い道の寄せ集めなので、必ずしも一気通貫で最適なデザインになっているわけではないだろう。

和田峠の旧道と新道(国道旧道142号)が交差する場所。旧道は直線的に急斜面を一気に下る(登る)が、新道は自動車が通れるよう勾配を下げるためにワインディングになっている。

このような旧中山道の山道を走るということは、総じて楽な選択肢が用意されている状況で、常に不便で辛い方を選ぶことの連続になる。例えば、自転車で走っていてトンネルや大規模な架橋を見かけると、必ず手前で分岐が出現し大きく迂回させられてしまう。ワインディングに差し掛かると、旧道はカーブせず未舗装路を直登させられる。

新道の中山道の木曽川を突破するための大規模な架橋。旧道にはも基本的には江戸時代にあったものしかないので、もちろんこんな橋があるわけはなく、大きく川沿いを遠回りしている。

この乖離した新道の整備は旧道沿いに住む人達の生活に大きな影響があった。一部の宿場町は、新道が離れた場所に通され旧道が廃れたことが原因で、一度衰退してしまっている。筆者が確認したものだけでも妻籠宿と軽井沢宿はそういう時期を経験している。

しかしその結果として旧道が開発されることなく、昔ながらの道を残すきっかけになったのは良い面でもある。特に妻籠宿や軽井沢宿などの場合は、新道と旧道が離れた結果として町は衰退し、さらにその反動で伝統的な景観や自然環境保存の運動が起こり発展した。ここはそういう雨降って地固まるみたいなことが起こっているわけなので、世の中何があるか分からない。

木曽古道との重複区間。他の古道や旧街道との重複区間や分岐も複数見られた。

関東の旧中山道

関東の旧中山道は、旧街道といっても人や車の激しい普通の幹線道路だ。関東以外の地域では旧中山道は主要道としての役割を新道に譲り、旧道は生活道路や観光者向けの遊歩道という位置付けに落ち着いているが、関東では旧道がいまだに現役で使われている。そのため開発しつくされ旧街道としての面影はほとんど見られない。もしかしたら住民でさえ自分が旧中山道に住んでいる認識がないかもしれない。

街並みや道の作りが旧街道らしくないだけではない。一般的に旧中山道といえば少なくとも宿場町付近では、何かしら古い建物があったり、地元の教育委員会が立てた史跡や町の歴史を解説する看板がほぼ必ずある。これらが関東は極端に少なかった。

筆者は中山道を走っているという自覚を持って走っていたため、それでもその中にわずかに存在する旧街道の痕跡を見つけることができた。しかし知識として知らなければ、旧街道を走っているという認識は持つことも難しいだろう。

東京・日本橋から群馬県・高崎市あたりまではおおむねこの傾向にある。旧中山道沿道は今でも江戸時代の建物が部分的に残されていることは少なくない。しかし確認した範囲で東京から最も近い中山道の遺構は、日本橋から100km以上走った場所にある、高崎市の上豊岡の茶屋本陣だった。

浦和宿中心部の現在の姿。写真を撮ってなかったのでStreet Viewのキャプチャで代用する。

旧街道の面影の少なさという意味では特に埼玉県はこの傾向が顕著だった。車の往来が激しい直線的な道路が通っており、その周りにオフィスや商業施設が立ち並ぶような、まさに地方都市の中心部という光景がずっと続いている。まるで中山道など初めからなかったかのようだ。史跡や宿場町の町並みがないという意味では東京も同じだが、東京の方がまだひっそりとした住宅街や古くて活気のある商店街があり、まだどちらかと言えば旧街道らしさはあった。

埼玉県でも蕨宿は例外的に旧街道の雰囲気があった。昔の建物は残っていないが、和風の建物や資料館があり、住民が宿場町であることを自認しているのがわかった。

筆者個人の感想になるが、この区間が旧街道サイクリングとして楽しかったかといえば、自分向きではなかった。教養の高い人であれば、一見するとただの首都圏や地方都市にしか見えないこの場所にも、旧街道の名残を見つけ楽しむことはできたかもしれないが。自分には関東の旧中山道を楽しむのに十分なリテラシーがなかった。

そこを踏まえて言うと、東京 – 高崎間は100kmほどなので1日で走り切ってしまったほうがいいだろう。長野や岐阜は、見所が多く、しかも山がちでスピードも出ない。であれば、こちらに時間を割いたほうがバランスがいい。これがこれから旧中山道サイクリングする人への、個人的なアドバイスだ。

東京の旧中山道。ゴールの日本橋からそれほど遠くない場所だが、東京中心部とは思えない静かな住宅街。一軒家も多かった。やはり、昔から先祖代々都心に住んでいて土地を持っている人たちかもしれない。
東京のもと板橋宿があった場所の商店街。伝統的な街並みとは言わないが、埼玉よりずいぶん旧街道らしさがある。
旧中山道起点の日本橋。流石に旧道の趣はない。

関西の旧中山道

関西の旧中山道は全体的に道が細く、センターラインもないような道路が多い。主要道としてはすでに使われていない。しかし寂れているかと言うとまたそうでもなく、地域に住む人のための生活道路という感じだ。関東ではほぼ全ての旧中山道が県道または国道であったのに対し、名前のないいわゆる白道区間も多い。

草津宿の街中。画像のように車は通れるが、関西の級中山道は基本的にはそこに用がある人向けの作りで、わざわざ通り抜けするような道ではなかった。木曽路の山間部と違って町として生きている一方、関東のように殺風景ではないという意味では、バランスが取れていたと思う。

筆者がスタートした京都の三条大橋から数kmまでは観光客で賑わう観光地であったが、そこを越えてしまうと、これが旧中山道のかつての都の目の前の場所なのかと思うくらい、その後は意外と何もなかった。ランドマークや観光客がいないという意味ではなく、本当に道以外何もない。唯一、虚無のみが存在していた。全てが国道の脇の名もなき脇道という感じで、サイクリングルートとしての楽しさも全くない。筆者は京都スタートだったため、これが500km以上続くのかと不安になった。

筆者にとってはスタート、東京からスタートした人にはゴールとなる、旧中山道西端の京都市三条大橋。

逆に滋賀県に入ると集落の中をくぐり抜けるような道がしばらく続く。古い建物が残るような観光地と言えるほどの宿場町跡ではないが、都市計画がされる前に人が住み着いた結果、土着の人間が昔からすんでいる集落の趣がある。宿場町に設置された歴史を開設する立て看板も多く見られるようになり、中山道らしくなってきた。摺針峠あたりからはいよいよ古めかしい宿場町も出てくるようになる。木曽路に比べると物足りなさもあるが、つまらないということはない。

川が民家の前を通る醒井宿
いかにも土着の人が住んでいるという感じの光景。関西ではかなりの割合がこういった道で構成される。筆者の地元と似ている。
こういう古びた商店街も多かった。

旧中山道を実際に走ってみよう

旧中山道を自転車で走る、または歩くための実践的な方法について考える。

ナビゲーション

Google Maps

筆者が調べた範囲の情報だとGoogle Mapsがもっとも有益な地図情報であった。旧街道という日本の文化的な情報でさえ、カリフォルニアの会社の作った地図が優れているというのは皮肉な話であるが、これが正直な感想だ。

インターネット上にルートを公開している日本語のWebページなどは見られるが、ダウンロードしてナビゲーションとして使えるようなものは見つけられなかった。ルートのデータがあっても、スマートフォンやサイコンで現在地と付き合わせせながら見ることができないと、あまり嬉しくない。

Google Mapsで旧中山道の情報にアクセスする方法は簡単で、旧中山道にあたる道に「旧中山道」とそのまま記載してある。観光道路だと「○○街道」「●●ライン」などとGoogle Maps上に直接記載されているが、これと似ている。サイクリストは観光道路に行く人が多いと思うので、こういう表記は馴染みがあるのではないか。

Google Maps上に表示された”旧中山道”の表示の例

しかし悪い面もある。Google Mapsは確認した範囲では最高の選択肢だったが、これもまた完璧なものではなかった。ユーザに提供しているインターフェースは地図上の決まったポイントに、「旧中山道」という文字を表示するだけの、簡単なものだ。この情報を検索したりナビゲーションに使ったりすることはできない。

徒歩で旧中山道をトレースする場合は、このくらいの使い勝手で十分だろうが、自転車だとちょっと物足りない。先述したように現代の旧中山道は、一本のつながった道ではなく国道・県道や白道を行ったり来たりする。そのため地図上にうっすら旧中山道と書いてある程度の視認性では、自転車のスピードで移動するには物足りない。実際筆者はハンドルにiPhoneをマウントしていたのに、初日は何度も見落とした。もっと視覚的に分かりやすい表示方法が必要だ。

そこで本稿で筆者の走行ログデータを公開することにした(リンク)。これを再利用することで、ナビゲーションに使うことができる。iPhoneやAndroidのGoogle Mapsなどの地図アプリで利用できるし、Garminなどのサイクルコンピュータを持っていればそこに入れることもできる。旧中山道をサイクリングすることがあれば、ぜひ参考にしてほしい。

路上の案内板

他にも、実際に道に設置されている中山道の物理的な案内板は有効だった。Google Mapsでのヴァーチャルな確認と、案内板でのフィジカルな確認を同時に行うことで、合わせ技でより安心して走ることができた。Google Mapsも便利とはいえ、すべての道をカバーできているわけではなかった。場所によっては路上の案内板しか目印がない場所もある。特に車道ではない遊歩道は、道そのものが地図に載っていないことがあった。

旧中山道の案内板。写真は東海自然歩道との重複区間。

では案内板があれば旧中山道が分かるかというと、これまたそんなことはない。案内板の設置に力を入れている地域とそうでない地域がある。関東はほぼ皆無と言ってよい。また案内板が比較的多い地域であっても空白地帯が発生する。このような状況なので案内板もまたGoogle Mapsによる補完を必要としている。

現在は土手沿いに追いやられた区間。こういった場所はGoogle Mapsに道が載ってないことが多く、道迷いが起きやすい。

ログデータ公開

Google  Mapsの旧中山道の文字を追いかけて走るという筆者の選択は、当時利用できたものの中ではマシな方法の一つだが、それでも便利とは言い難いやり方だった。しかし読者は非文明的な力技を使う必要はない。なぜなら筆者の今回の旧中山道ライドで得られたログデータを公開するからだ。このログデータをiPhoneやサイクルコンピュータに入れることで、ナビゲーションに再利用することができる。

ログデータの俯瞰
拡大するとこんな感じ。

免責事項として、この走行ログはほとんどは正しく旧中山道をトレースできていると考えているが、部分的には間違いもあることも伝えておきたい。例えば下り坂でスピードが出ているときは、分岐を見逃しやすく間違いが発生しやすい状況にあった。間違っているのは瑣末な部分だけなので、99%以上は正しいとは思うが、気にする人は自分でも気をつけてほしい。

トレースしそこねた場所の例

Google My Mapsに馴染みがない読者もいるかもしれないが、Google Mapsのアプリがあれば簡単に使える。このリンクからログデータに一度アクセスしておくと、Google Mapsアプリの下部「保存済み」→マイマップに現れるようになる。これをタップすることで地図上に筆者が作成したログデータを表示できるようになる。ただしアプリのUIはよく変わるので、ここは注意してほしい。

一方で、Garmin等のサイクルコンピュータに移植するのは一手間ある。しかしこれは過去に個人ブログの方にまとめている。サイコンを持っている人はぜひ試してほしい。

iPhoneを使うならQuadLockがオススメ。

日数の考え方

旧中山道をサイクリングすると決めてしまえば、旧中山道を走る以外にルートに選択肢がないので、どう走っても総距離は533kmで一定だ。なので日数を考えるにはまず1日に走る距離から考えると良いだろう。筆者の場合は50km/日ほどのペースだった。

後からGarmin Connectを確認すると5~10km/h程度のスピードだった。走っている時間を急いで進めば加速の余地はあるとしても、観光、食事、未舗装路の担ぎ、迷ってる時間も織り込んだ上で急がず走れば、誰が走っても大したスピードにはならないだろう。バラつきが大きいのは、走る場所によって条件が変わるためだ。関東方面のように見どころも少なく道も平坦でまっすぐな場所ではスピードが出る。その一方、木曽路やその周辺では平均すると5km/hほどになることもある。

木曽路やその周辺のスピードの出せなさは、良さの裏返しでもある。ここでは宿場町の町並みが綺麗だったり、歴史の資料もあり見どころが多い。特に観光地化された大規模な宿場町は滞在時間が長くなりがちだ。峠道も険しく未舗装路になると当然ながら巡航スピードは落ちるし、たまに和田峠のように押しや担ぎがあると歩くより遅くなる。

民家と民家の間に辛うじて残留する消えてなくなりそうな旧中山道。

旧中山道サイクリストの足を引っ張るのは、宿場町や峠道と言ったキャッチーな特徴だけではない。木曽路周辺では何気ない場所の道の作りの複雑さも、ボディブローのように地味のスピードに効いてくる。写真を見てほしいが、 民家と民家の隙間や、バイパスの脇道、川沿いの土手などに押し込まれてしまった部分がたくさんある。

民家に挟まれ幅が1mほどしかない区間。

こういっためんどくさい場所は大抵の場合、自転車を乗ったまま通行できる迂回路がある。律儀にオリジナルの旧道をトレースするならそうはいかない。どのみち、そういう場所を面倒な場所は大抵の場合おもしろいので、めんどくさいことを理由に迂回路を行ってしまうのはつまらないと思う。かつての日本の大動脈だった中山道が、様々な経緯で現代人の生活の隅に追いやられた歴史を偲びながら、道の個性を感じてほしい。

迷っている時間も案外バカにならない。Google  Mapsとフィジカルな案内板が両方あるのに何を迷うのかと思うかもしれない。しかしこれらは2つはどちらも完全ではない。そのため、どちらにもカバーされてない最小公倍数的な空白地帯が、時どき発生してしまう。こういう時は推測に頼ることになるが、こういう意思決定は疲れるし、積み重なってけっこう時間がかかる。

バイパスのせいで変なところを通らされる区間。ここでは盛大に道迷いし、ある意味で難所だった。

Google  Mapsと案内板の空白地帯が発生した時は、地図から読み取れる前後の道の形と、目に見える風景の旧中山道らしさを統合し、尤も旧中山道らしいと思われる道を選択する。序盤(筆者にとっては京都付近)は訳もわからず走っていた部分があるが、数日経った頃から勘所を掴んできたため、旧中山道らしさを推定することができるようになってきた。

旧中山道を部分的に走る

この記事を読んで旧中山道ツーリングに興味を持ってもらえても、533kmという総距離を考えると実際に実行するには障害もあるだろう。筆者と同じ 50km/日のペースで走るとしたら533kmの場合11日かかる。天気やトラブルのためのバッファを見込んだら2週間くらい欲しいところだ。2週間という期間は仕事や学校を休める人と休めない人が出てくるだろう。筆者のような自宅でマウスをカチカチしているだけの虚業に従事する非エッセンシャルワーカーならともかく、医療従事者やサービス業のようにシフトで働いている人には難しいだろう。

しかし中山道には救済がある。旧中山道は基本的にはJRの比較的メジャーな路線の駅から数kmほどの場所を走っている。そのため輪行を使いながら行程を数回に分けることは難しくない。特に太平洋ベルト地帯に住んでいる人にはことさらハードルが低い。実際に筆者は以下のように3回に分けた。

  1. 京都 (京都駅) →大井宿(恵那駅)
  2. 大井宿 (恵那駅) →福島宿(木曽福島駅)
  3. 福島宿 (木曽福島駅) →江戸(東京駅)

筆者の場合は名古屋在住のため、今回スタート/ゴールとして選んだ全ての駅は、特急や新幹線を使って乗り換えなしでアクセスできる。そういう意味では名古屋ほど旧中山道サイクリングに適した土地はない。

分割したとしても長すぎると言うなら、もう興味を持った場所だけをつまみ食いするように走ればいい。どのみち旧中山道をいく旅行者は全区間走破する人は少数派で、馬籠⇔妻籠間など象徴的な場所を歩く人が多いので、妥協というほど悲観的な選択肢でもない。 全走破にこだわるハードコアなツーリストでさえなければ、積極的に興味のある部分だけ走ってもよいと思う。

実際のところ、峠道や保存された宿場町といった、旧中山道の見所の大半は木曽路の前後に固まっている。そのため木曽路周辺だけ走れば、旧中山道の要点はカバーできる。こういう言い方は全く風流ではないが、木曽路周辺だけ走るのがもっともコストパフォーマンスが良い。

日頃のツーリングのルートに部分的に旧中山道を取り込むのもいい。筆者も旧中山道とは関係のないツーリングでも、たまに旧中山道をルートに取り入れることがある、部分的に切り出すならやはり木曽路がオススメだ。峠はオフロードになっていて、風情のある宿場町もある。いつものツーリングに変化を加えることができる。

木曽福島駅。ワイドビューしなのが停まるため、名古屋からは一本で行ける。

旧中山道自転車に適した自転車

やはりMTBやグラベルロードのようなオフロード車が好ましい。これは旧中山道は現在では舗装路が大半とはいえ、未舗装の峠はどれも見どころで見過ごすことは論題だからだ。筆者のようにゆっくり50km/日程度のペースで街道めぐりを楽しむなら、細かいこだわりはない。グラベルバイクなら舗装路は早いが未舗装区間では乗車率が下がり、MTBならその逆になるという単純なトレードオフだ。筆者の場合、前半はMTBで後半はグラベルバイクで走った。これには深い意味はない。単なる味変だ。

筆者のMTBであるKONA UNIT X。京都から木曽福島まではこれを使った。舗装路の登りは物足りないが、オフロードや宿場町をゆっくり回るにはちょうどいい。宿場町では立ち止まって見たいものがたくさんあるので、ドロッパーポストが思わぬ形で奏功した。

オフロード車を持っていない人もいるだろうが、未舗装路での乗車率が下がることを許容できるなら、ロードバイク行くことも選択肢としては無しではない。険しいオフロードは担ぐとしても、しまったダート部分は十分乗れてしまうだろう。最近流行りのちょっと太いタイヤが入るロードバイクがあれば心強い。

街道めぐりに興味があるなら、ロードバイクしか持っていないということは、行かない理由にするにはあまりにも些末だ。困ったら担いだり迂回ルートを通ればいいので、ロードバイクでも行きたいなら行けばいいだろう。

サス付きグラベルバイクの草分けCannondale Slate。

旧中山道の峠道

峠は旧中山道の醍醐味だ。旧中山道の魅力としてよく挙げられるのが、昔の情景が保存されている点だ。これは主には宿場町をさしての評価かもしれないが、峠も同じく昔ながらの風景になっている。むしろサイクリストにとっては峠道のほうが魅力的かもしれない。少なくとも筆者はそうだ。

江戸時代の当時から険しいと言われていた旧中山道の難所を表現したものに、こんな唄がある。

木曽のかけはし
太田の渡し
碓氷峠がなくばよい

桟 (かけはし) とは木を渡して作った道で、木曽のかけはしは木曽川の絶壁に作られた道だ。旧中山道は昔のままの保存されていることが多いが、危険な場所まで保存しているわけではない。今でも木曽川沿いの崖には道路が通されているが、全てコンクリートでできた自動車が通行できる丈夫な道だ。

太田の渡しとは、当時は橋がかけられていなかった木曽川の下流の方で、ここを通行するために運用されていた渡し船のことだ。ここについても1927年の太田橋建造され陸路で通行できるようになり、太田の渡しも今は残っていない。

太田の渡しではないが、木曽川を越えるときに使った橋。当時であれば渡し船を待たざるを得なかったのだろう。

一方、碓氷峠は現在でも変わらず難所として残されている。国道18号の碓氷峠を知っている人にとって難所という印象はないかもしれないが、実はこれは当時の碓氷峠とは全く違うものだ。本来の旧碓氷峠は車の通行できない未舗装のトレイルとして保持されている。

碓氷峠同様に難所とされていた他の峠道も、現在も自動車の通れない未舗装峠のままのこされている。特に碓氷峠に加えて鳥居峠、和田峠の3つは、標高1,000mを超え、走りごたえがある。

碓氷峠の担ぎが必要な場所

これら旧中山道の峠の歴史を見ると、どこも明治以降に車で通行可能な代替の道が作られている。旧道の峠も当時としては効率のいいルートだったかもしれない。しかし先進的な土木技術を利用が利用できて、道路に求められる要件として自動車を高速に輸送できることが加わった現代では、道づくりの前提は全く違う。例えば険しい山を越える必要があるとき、江戸時代であれば山肌から条件の良いルートを選んで道とするが、現代人なら山に穴を開けてトンネルを作る。

そのため新道と旧道のルートがズレてくる場所がでてきた。特に木曽路の山道はこの傾向が顕著で、場所によっては数km単位で外れている。その結果として、旧道の峠は実用上の価値は無くなったためか、舗装されず昔のままの形で残されることになった。

これは筆者のような物好きのサイクリストにとってよい結果となった。車が通らないので開発されることがなく、一方で旧中山道という文化的価値から、一定の歩行者がいて整備もされている。そのため開発はされないが荒廃することもない、という絶妙なバランスを保っている。

本稿の締めくくりに、これ以降で中山道の未舗装の峠道を京都側から紹介していきたい。

摺針峠(番場宿 – 鳥居本宿)

現在は車でも通行可能な道路だが鳥居本宿側 (京都側) は、新道から分岐して旧道があり、こちらは未舗装路になっている。未舗装路区間は数百mの短いものだが、関西方面に残されている唯一の未舗装峠である。最近捨てたようなビールの缶やお菓子のゴミが投棄されており、今でも通行人がいるのだなと分かった。

摺針峠の竹林

摺針峠は空海 (弘法大師) にちなんだ逸話がある。斧を削って針を作り出そうとする老婆を見て、空海が修行に励むきっかけになったというものだ。空海が生きていた西暦800年前後なので、中山道を含む五街道を整備が始まった西暦1601年より、ずっと前から道があったことが分かる。

未舗装の旧道区間は取るに足らないごく短いものだったが、印象深い峠だった。筆者は京都からスタートしたが、ここまでの道は凡庸な生活道路が続いているだけで、旧中山道に本当に走る価値があるのか自信が持てなくなっているところだった。そんな中で登った摺針峠は一つ目の未舗装区間だったというのと、峠の麓の鳥居本宿・番場宿が、ここまできて初めて本格的に旧宿場町らしい場所であったので、筆者にとっては旧中山道ライドが楽しくなるぞという確信を持てた瞬間であった。また逆に江戸をスタートにした人にとっては、ここが峠道の締めくくりとなる。

うとう峠(太田宿 – 鵜沼宿)

うとう峠は鵜沼宿のすぐそばにある峠だ。

鵜沼宿を出て東に進むと斜面に沿ってくたびれた感じの住宅街が現れる。地図を見ると綺麗に区画整理されており、いわゆるニュータウンのようだ。地名も鵜沼台と新興住宅地にありがちな名前で、おそらく間違いないだろう。

鵜沼台の住宅街を抜けるとうぬまの森という公園がある。うとう峠はこの公園の中にある。公園といっても遊具やグラウンドがある場所ではなく、遊歩道や展望台のある林の大型の公園だ。標高も140mしかなく、公園の中を歩いていたらいつの間にか終わってしまった。

江戸時代にはなかったものだろうが、うとう峠にはトンネルがある。

後にも先にも公園の中を中山道が通っていることはなかった。そもそも峠が公園の中にあること自体かなり珍しいことではないだろうか。地味な峠だが個性的で面白い場所だったと思う。

うとう峠。眼科には国道21号が見える。

物見峠(細久手宿 – 御嶽宿)

普段からグラベルサイクリングをしている人にとっては何ということはない、しまったきれいなグラベルだ。展望や特徴的な景色はないが、走りやすく気持ちがいい。

道中にはケーキ屋があり、まるで旧中山道のかつて存在した茶屋の生まれ変わりようだった。ここに店があることは事前に確認済みで休憩していこうと考えていたが、大変な人気店ので大混雑しており、1秒でも待ってみようかと悩む気すら起きないほど混んでいた。オフロード沿いにある日本のケーキ店で番付をやったらここが1番になるに違いない。

逆にいうとケーキ目当てで来るような普通の乗用車の往来がある道で、それほどにきれいなグラベルということができる。近隣の琵琶峠やうとう峠は自転車ですら押す場所もあり、それと比べると道がしっかりしている。現代に入ってから車が通れるような規格に整備しなおしたのだろうか。旧中山道の未舗装峠で唯一自動車で通行することができた場所だ。

あまりにきれいなので旧中山道らしさはなく平凡なグラベルだが、だからこそこの辺りのサイクリングコースとして良い選択肢になるだろう。筆者はこういうオープンなグラベルの情報はどんどん共有していくべきだと考えている。

物見峠の粒度が細かいしまったグラベル

琵琶峠(大湫宿 – 細久手宿)

全面石畳になっている坂道。石畳は粒度が大きくMTBだとしても辛く、サイクリングに適しているとは言い難い道だった。だが幸いにしてここの石畳は本物の史跡らしいので、自転車を押して江戸時代に想いを馳せながら登るくらいの楽しみは残されていた。この石畳は700mあるが、これは国内最長級らしい5)瑞浪市公式ホームページ https://www.city.mizunami.lg.jp/kankou_bunka/spot/1001290/1002210.html

十三峠(大井宿 – 大湫宿)

物見峠と同様、整備されたグラベル。

こちらは近くの物見峠と比べるとアップダウンの激しい立体的な構造になっている。峠という名前がついているが、山道の登りと下りを分けている特定のポイントという意味ではなく、この区間のアップダウン全体のことを指している。

後から知ったところによると、昔からアップダウンが激しい場所として言われており、十三峠という名前も大井宿と大湫宿の3里半 (14km) の間に坂がたくさんある、という地形に由来しているらしい6)中山道 十三峠 – 瑞浪市観光協会 https://xn--w0w51m.com/jusantoge/。地名が地形を表しているのはありふれた話だが、自分の直感で感じたことが後から知識として裏取りされていくは気持ちがいい。ちなみに十三 (じゅうそう) ではなく、十三 (じゅうさん) と読む。

アップダウンのある道は視覚的に面白い場所が多い。路面もしまっており全体として良い道なのだった。旧街道であることを抜きにしても、サイクリングのルートとして採用する価値がある。

鳥居峠(奈良井宿 – 藪原宿)

鳥居峠は 奈良井宿と藪原宿の間にあり、現在で言う長野県木曽郡と塩尻市の市境になっている 標高1197mの峠だ。

日本列島の南北の真ん中に位置している鳥居峠は「日本中央分水界」を構成する峠となっており、木曽川と奈良井川を太平洋側と日本海側に分けている。 ここまでの峠道は標高もせいぜい500mほどで、人里から少し離れた山の中の坂道という程度だったが、 鳥居峠から1,000mを超え、いよいよ峠らしくなってくる。

近代以降の鳥居峠は、新しい順に
①鳥居トンネル(国道19号)
②鳥居隧道(旧国道19号)
③明治新道
④鳥居峠(旧中山道)
の4つがある。①、③、④は現在も通行可能であるが、このうち②鳥居隧道だけが廃道になっている。そして今回通行したのはもちろん④鳥居峠で、本稿の中心となる。

①鳥居トンネル(国道19号)

鳥居トンネルは現在の鳥居峠の本線になっている。④鳥居峠が中央分水嶺の険しい尾根の合間を迂回するように走っているところを、こちらは山をブチ抜いて最短距離で貫いている。土木技術の賜物だ。

現存する④鳥居峠は自動車で通行できないため、実質的に鳥居峠のほとんどの交通はこの鳥居トンネルでカバーしている。そのため④鳥居峠は開発されることなく、昔ながらの姿を保存することができた。国道を開発することで、逆説的に古道という文化資源をが破壊から守っている。

②鳥居隧道(旧国道19号)

鳥居隧道は③明治新道の後継として作られた道だが現在では廃道となっている。しかも藪漕ぎすれば通れるような廃道ではなく、コンクリートで蓋をされているため、パスハンターの精神を以って自転車を担いでも、物理的に完全に通行不可能になっている。20世紀の技術を投じたより進歩的な道として作られたはずだが、旅人やオフロード好き相手に上手く生き残った③明治新道、④鳥居峠と立場が逆転している。

鳥居隧道のように昭和に作った道では、文化資産としては江戸時代や明治の道には劣り残すほどの価値はないということだろうか。しかし我々ツーリング野郎としては、そういう中途半端な古道も十分魅力的なので、可能であれば藪こぎができる程度には残っていてほしいものだ。

③明治新道

明治新道の鳥居峠は旧中山道の後継として作られた、文字通り明治時代の新道だ。こちらについては筆者が実際に通行できていないため詳細は割愛するが、YouTubeなどに上がっている走行動画を見ると旧中山道と同じく、グラベルとして現存しているらしい。こちらも行ってみたい。

④鳥居峠(旧中山道)

現在の鳥居峠はハイキングコースと史跡を兼ねた遊歩道、または御嶽神社への参拝路として残っている。ここは自動車は通行することができず沿線に住民もいない。そのため現在では道路としての実用性は失い、文化的、宗教的な役割のみを果たしている。

パンデミックにより観光客が激減している時期ではあったものの、それでもここまでの峠道で見かけなかった他の歩行者を見かけた。いずれも地元の通行人ではなく、観光客という装いだった。

鳥居峠のボードウォーク。こういう構造物があり、峠が大事に整備されていることが分かる。

自転車ルートとして見た鳥居峠は、同じく中山道屈指の難所と言われた和田峠、碓氷峠と比較すると、ずいぶんマイルドだった。鳥居峠は標高1,200mの未舗装峠で、話だけ聞くと随分と物騒な感じがする。しかし道の作りはなかなか走りやすい。筆者は 藪原宿側 (京都側) から登り奈良井宿側 (江戸側) へ下ったがほぼ乗車していくことができた。グラベルも日本のグラベルの水準としては砂利の粒度が細かく道がしまっている。

一方で、展望は開けずグラベル峠としての景色はどちらかといえば退屈な部類だ。和田峠や碓氷峠の方が、道の作りなど目に見える特徴はずっと個性的だった。道がしっかりして走りやすいことの副作用だろうか。筆者の経験上、面白い道の方が険しく乗車率は下がる傾向にある。グラベルサイクリングなら道の面白さと走りやすさを兼ね備えた場所に行きたいが、そういう才色兼備なグラベルはなかなか出会えない。

写真からわかるように、標高は高いがグラベルは綺麗で穏やかな未舗装峠。

自転車で通行するのであれば、京都側(藪原宿側)と江戸側(奈良井宿側)の特にどちらがおすすめということはない。走行ログのグラフからわかる用に、勾配はどちらも同程度だ。

走行ログの鳥居峠の標高グラフ。左が京都側、右が江戸側になっている。峠の険しさはどちらもあまり変わらない。

鳥居峠の江戸側の麓の奈良井宿は中山道の中でも規模の大きい宿場町であり、現在も中山道の文化資源を活かした観光業や飲食店が栄えている。標高1,200mの未舗装峠を越えた後に、奈良井宿のような賑やかしい場所が出てくるのは、正直ホッとするところがある。自転車に乗った現代人がそう思うのだから、徒歩でここを越えていた江戸時代の人々はもっと頼もしさを感じていただろう。

和田峠

和田峠は標高1,600m (資料によって表記が違う) の中山道最大の峠だ。

和田峠は本州最大規模の黒曜石の産地であり、縄文時代から人が住み、当時のテクノロジー?が根付いていたことが分かっている7)https://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/bunsho/kassei/documents/new.pdf。ここで採掘した黒曜石は広く使われ、遠い場所では北海道の木古内で発見されている8)http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20181214000843。旧中山道の道はもともと使われていた道を17世紀に再整備したものなので、名もなき場所というものはなく、どこもそれなりの歴史をもつが、縄文時代というと文字通り桁が違う。

近代以降の和田峠は新しい順に
①新和田トンネル有料道路(国道142号)
②和田峠トンネル(旧国道142号)
③紅葉橋新道
④古峠(旧中山道)
の4つの道がある。①②は現在も車道として運用されているが、③はほとんど廃道状態、④は遊歩道として運用されている。今回通行したのは④和田峠だ。

①新和田トンネル有料道路(国道142号)

1つ目は新和田トンネル有料道路含む新国道142号だ。移動のことだけを考えればここが最速なので、最も一般的な選択肢となる。筆者も長野県への旅行のときに何度か利用したことがある。

有料道路ではあるが自転車と歩行者の通行も可能である。自転車の通行料は50円、歩行者の通行料は無料だ。面白いことに通行可能ではあるにも関わらず、2kmほどのトンネルであるが見通しが悪く歩道等がなく、長野県道路公社は「極力通行を避けていただく」と極めて日本的なニュアンスで公言している9)よくあるご質問 http://www.ndoro.or.jp/faq。通行禁止ではなく通行を避けていただくという道路は初めて見た。歩行者・自転車には②和田峠トンネルの選択肢もあるので、いっそこちらは通行禁止にしてしまっても実害はなさそうだが、できない理由があるのだろうか。

②和田峠トンネル(旧国道142号)

2つ目は旧和田峠トンネルを含む旧国道142号だ。こちらは1933年に開通した戦前のトンネルで現在も運用されている。

改修工事はされているとはいえトンネル自体の幅は未だに5mほどしかない。日本の一般的な現行の道路は3.5m程度とされており、また乗用車が全体的に大型化している傾向を考えると、かなり狭い。このような状況から現在は片側交互通行となっている。こちらを通行する理由は、長野県道460号のビーナスラインに用がある場合に限られそうだ。

③紅葉橋新道

江戸時代から地域住民を苦しませてきた古峠(旧和田峠)の急勾配を解消するため、旧中山道の後継として作られたのが紅葉橋新道だ。この道が1876年 (明治9年) に建造されると、旧中山道のは通行する人はほとんどいなくなり、中山道の和田峠は古峠と呼ばれるようになった。

紅葉新道。道があるはずの場所もコンクリートで護岸されており、完全に人が通る想定がなさそうだ。

この道はほとんどそのまま旧国道142号に踏襲されている。ただ一部、現在の②和田峠トンネルにあたる部分は、この区間は現在は野生化が進み廃道状態になっている。

ちなみに旧中山道ライドとは別の機会に紅葉橋新道の和田峠トンネルに替わられた廃道区間も走ってみた。ここは旧和田峠トンネルのちょうど真上を走る形で現存している。特に紅葉橋新道を示す表示は無いが、廃道区間の入り口はトンネルの前後の旧国道142号の脇にあり、目を凝らすと獣道と登山道の中間くらいの道のようなものが見える。ここを分け入ると廃道区間に入っていくことができる。一応サンダルなどの人工物が落ちていて、かろうじて人間が通行していることが分かった。

紅葉新道。辛うじて獣道は残っている。

紅葉橋新道は廃道ではあるが、廃道の中では野生化が遅い部類で、一応は現行の遊歩道である④古峠と比べると、勾配が緩く遥かに楽な道のりだった。廃道は大雨で崩れたり植物が成長して道が塞がってしまうなどして時間とともに風化するが、ここは条件に恵まれたかかなりいい状態で残っていた。大政奉還から間もない頃にこのぐらいの道が作れるなら、旧中山道ももうちょっと頑張ってもよかったのでは?と思ってしまう。

④古峠(旧中山道)

そして最後が旧中山道の古峠である。標高は1,600mあり旧中山道だけでなく江戸幕府の五街道全てを含めた最高地点である。中山道の難所といえば最初に名前が上がることは多い。

和田峠は京都側はは登山道、江戸側はダブルトラックになっている。どちらから登るかで体験が全く異なるだろう。筆者は京都側から登ったので、上りはほとんどずっと自転車を担いで登山道を登っていた。江戸側から登って京都側の登山道が降りだったとしても、乗車は難しいだろう。道の険しさについては下掲の写真を参照いただきたい。

和田峠の標高グラフ。画像左が京都側(下諏訪宿側)、右が江戸側(和田宿側)。明らかに京都側が険しい。
京都側(下諏訪側)の登山道。登りでも下りでも乗車は難しいだろう。

鳥居峠と比べると通る人が少ないのか、半分藪こぎのような場所もあった。何と言っても和田峠前後の未舗装区間は数時間かけて登ったが、連休中にも関わらずすれ違った他のハイカーは2組だけだった。人気のハイキングルートは密を避けた人で逆にごった返すと聞いているが、それとは対象的だ。

その一方で道の脇に目をやるとカラマツの林がよく間伐されているのが見えた。筆者は人気のない場所ばかりサイクリングしているので、間伐されている気配があると人の気配を感じて、少し安心することができる。

和田峠の江戸側。京都側の登山道と違い写真のように道幅が広く比較的緩やかな坂が続く。グラベルではなく草や泥が多かった。

逆に降りの江戸側は幅員が広く坂が緩やかだ。筆者は江戸側は下りだったが、登りだとしてもほとんど乗車可能だっただろう。峠付近は急勾配で国道はつづら折れになっているが、旧中山道はそれを横切る形でまっすぐ伸びている。そのため国道を横切るときにストレスはあったものの、ほとんどは快適に降ることができた。

まっすぐ走る旧中山道と、国道142号のつづら折れが重なる場所。峠付近では何度も国道を横切る必要がありちょっと煩わしい。

和田峠は京都側の山道の険しく陰鬱とした雰囲気とは裏腹に、峠そのものは広く開放的な峠だ。見晴らしは無いが、ちょうど稜線上にあり風も吹いているので、つい長居してしまう。

何もない場所にいくつか看板が立っている。そのうち2つは和田峠の歴史を記している。他には扉峠と三峰山への道を案内する標識だった。和田峠は実は中央分水嶺トレイルという遊歩道と旧中山道の分岐になっており、ここから中央分水嶺トレイルに沿って稜線沿いの道を進むと扉峠方面に抜けることができる。

京都側の鬱蒼とした登山道とは裏腹に、開放的な和田峠

下諏訪宿

和田峠の麓には江戸側には和田宿が、京都側には下諏訪宿がある。旧中山道は大きな峠の前には大きな宿場町がある傾向にあるが、和田峠の場合は京都側に旧中山道最大級の下諏訪宿がある。

下諏訪宿の景色。観光地ではあるが、妻籠宿や奈良井宿のように住民で同調して景観を残しているわけではなく、伝統的な建物、昭和の建物、モダンなお店などが混ざり合う、本当に個性的な宿場町だった。

個人的に一番好きな宿場町を聞かれることがあれば、今の気分では下諏訪宿と答えるだろう。かつての下諏訪宿は旧中山道唯一の公衆温泉や諏訪大社を備えた発達した宿場町だった。現在の下諏訪は宿場町としての伝統的な面影を残しながら、若い世代の移住者も獲得し垢抜けた雰囲気がある。

移住者はそれぞれゲストハウスや焼き菓子店やタップルームなどのローカルビジネスを営み、街を作りコミュニティを形成している。その結果、古い街の雰囲気と現代人の生活が絶妙なバランス感覚で混ざり合う、中山道の中でもユニークな宿場町になっていた。伝統に固執するわけでも、ただ単に今風というわけでもない、進歩的な街だと思う。

菅野温泉。下諏訪の公衆浴場の話になると真っ先に名前が上がる。お湯はとても熱い。

下諏訪宿にはマスヤゲストハウスという古民家を改装したゲストハウスがあるので、下諏訪宿を通過するときは是非ここで一泊する計画にして、時間をとって下諏訪を探索してほしい。

マスヤゲストハウス。古民家を改装したイカした建物だ。

碓氷峠

最後に紹介するのは、旧中山道最東端の難所である碓氷峠だ。先述の中山道の険しさを表現した唄として「木曽の桟、太田の渡し、碓氷峠​がなくばよい」というものがある。峠道としては標高が最も高いのは和田峠だが、それを差し置いてこちら碓氷峠の名前が上がるほどに険しかったようだ(というのも今となっては和田峠の方が険しかったと思う)。

碓氷峠は軽井沢宿 (京都側) と 坂本宿 (江戸側) の間にある峠だ。現代の日本の行政区画で言うところの長野県と群馬県との県境になっている。この碓氷峠をもって関東平野の市街地と、木曽路の山間部がこの峠できれいに分断されている。筆者は京都側から旧中山道を走ってきたので、鵜沼宿辺りからずっと走ってきた山間部をこの峠で締めくくることになった。逆に東京から来た場合、ここが旧中山道の険しい山道の洗礼となる。

碓氷峠は峠を境に道の様子がドラスティックに変化する。長野県側は勾配のゆるい舗装路で、軽井沢観光の要衝である市街の中心部や、別荘地帯に囲まれたのどかな場所だ。パンデミック下ではあったが、軽井沢への観光客や、別荘にやってきた人で賑わっている。ここだけ見れば難所と言われる面影はまったくない。その一方、峠を東京側に越えた途端にオフロードが始まる。

碓氷峠から群馬県・坂本宿側への7.5kmはオフロードのまま残っている。きれいなグラベルとシングルトラックが切り替わる変化のある道で、旧中山道であることとは無関係に良い道だった。国道との合流手前は担ぎが発生するが、そこまでは気持ちよく乗車することができる。

筆者は京都スタートだったため、碓氷峠は緩やかなオンロードの軽井沢から登り、オフロードの坂本宿側は下りで楽しむことができた。これが東京スタートで坂本宿側から登っていた場合、苦労してオフロード側から碓氷峠を登り、軽井沢側の平凡な舗装路を降るだけになっていた。碓氷峠を自転車で楽しめるのは、旧中山道を京都スタートで走るメリットのうちの1つだ。

碓氷峠はいわゆる「片峠」と呼ばれる地形だ。峠とは一般にそこを境に登りと降りが切り替わる場所を表す言葉である一方、片峠は一方が平坦に近いような場所を表す言葉だ。碓氷峠前後の標高を図示するとよく分かる。画像左の平坦な側が舗装された長野側軽井沢宿方面の道で、右の急峻な側がオフロードの群馬側坂本宿方面の道だ。いろいろな意味で、ここまで峠の前後で景色が変わる場所は珍しい。

左が京都側(軽井沢宿側)、右が江戸側(坂本宿)。片峠と呼ばれる地形で、京都側はほとんど平坦で、江戸側は急峻な坂になっている。自転車で走るなら京都側から登りたい。
碓氷峠の群馬側の中程にはバスが放棄されている。今となっては自転車ですら担ぐ場所も出てくる細く険しい道だが、昔は車も少なくとも半分ほどは通行できたようだ。

軽井沢宿

現在の軽井沢は宿場町ではなく観光地として栄えているが、旧中山道時代から規模の大きな宿場町であったとされる。どうも大きな峠の前後には大きな宿場町がある傾向にあるようだ。

同じく鳥居峠であれば奈良井宿、和田峠は下諏訪宿がある。いずれの場所にも峠を越える前後の人達が休む場所を求めて栄えたような説明を見かけた。人間の体の作りは江戸時代からほぼ変わらないと思うので、峠を越えると疲れるというのは確かに自然なことだ。しかしそれらの全てが観光地として現在も上手いことやっているというのは、面白い偶然だと思う。

軽井沢の場合は旧宿場町としてそのまま発展したわけではない。江戸幕府が終わり、明治に道路整備をすすめる中で、このあたりを通る国道として開通した碓氷新道が軽井沢を外れたために、この町は一度死にかけている。

そんな中、 Alexander Croft Shaw という一人のカナダ人宣教師がやってきた。彼は軽井沢を避暑地として気に入り、彼の評判から軽井沢に国内外から人が集まりだした。これをきっかけとして現在の軽井沢の発展がある。妻籠宿のように宿場町を宿場町として保存して発展させた場所とは、また違った町の再生の歴史だ10)軽井沢観光協会 https://karuizawa-kankokyokai.jp/knowledge/235/

峠から近くの軽井沢市街地。このように軽井沢側は穏やかな場所で賑わっている。

おまけ

References   [ + ]

1. @RX_Takaoka 午後3:55 · 2020年11月16日
2. 渡部 美智子 『重要伝統的建造物群保存地区と観光』 表-3 馬籠峠を越えるハイカー
3. 渡部 美智子 『重要伝統的建造物群保存地区と観光』 表-6 奈良井駅を訪れる外国人(全体)
4. 国土交通省観光庁『訪日外国人の消費動向』【図表】国籍・地域別の訪日外国人1人当たり旅行支出と旅行消費額
5. 瑞浪市公式ホームページ https://www.city.mizunami.lg.jp/kankou_bunka/spot/1001290/1002210.html
6. 中山道 十三峠 – 瑞浪市観光協会 https://xn--w0w51m.com/jusantoge/
7. https://www.pref.nagano.lg.jp/kyoiku/bunsho/kassei/documents/new.pdf
8. http://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/20181214000843
9. よくあるご質問 http://www.ndoro.or.jp/faq
10. 軽井沢観光協会 https://karuizawa-kankokyokai.jp/knowledge/235/